一乗谷/朝倉氏館跡

 昨日(二十)の、賤ケ岳古戦場跡を見学したのは、夕方近くなっていた。登りや下りなど、肉体的な疲れや天下が治まるまでのそれぞれの武将の戦国時代的な思いに引き込まれ、精神的にも大変に疲れていたが、国道8号線を北上した。(距離的にも地理的にも琵琶湖を周遊したいこともあって北陸自動車を使用しなかった)
 福井市まで距離的に約六十?以上の道のりだと思うが、車を駆けらせた。到着時刻は午後六時。ホテル探しを近くのコンビニに車を止め、便利な「カーナビ」で探る。また妻の持参したパンフ(JF発行)にあるホテルと照らし合わせ、電話してみる。運良くワシントンホテルがとれた。十%の割引もなるという。目的地を「ナビ」に設定し、車を走らせる。駐車場がわからない。妻にフロントに問い合わせをお願いする。ところが時間が経ちすぎる。かかると思ったら、プロントは5階であったという。掛かるはずである。夜食は、2階のレストラン「銀座」でセットメニューを頂くことにする。
 …………………[北の庄]
 次の日(二十一日)の朝、「北の庄」神社を見学する。ここは柴田勝家の居城跡であった。今はすっかり区画整理の対象となって、僅かばかりの面影を残すものであった。目立たず敗残の将の哀れさを感じざるを得ない。
 銅像があり、よく見ると、「勝家」本人、妻の「お市」の方であった。通りでもよく目立つ場所にある訳でもなし、近隣の人々もあまり語ることもない、ひっそりとした感じである。
 賤ケ岳の戦いで豊臣秀吉に敗れた二人は、ここで潔く自刃した。おかれている環境とともに何とも悲壮感が伴う。 
……………[一乗谷朝倉氏城館跡=福井市
 永平寺とは山を隔てて、福井市より二十?の近間であった。
城館跡、庭園跡、発掘による当時の町並みの復元など、ぐっと身近な存在としてそこはあった。室町中期、応仁の乱の中、ここ一乗谷を本拠として越前一国を掌握したが、信長らに攻め滅ぼされてしまう。五代孝景までの栄華の跡があちこちに見られ、戦国大名の先駆としての朝倉敏景十七箇條(朝倉孝景条々ともいう)という家法も定めた。滅ぶは「守り」に入ったのが一因か?
▼ 秋の朝 陽射しも弱し 北の庄
  ▼ 兵の 潔しよさ見る 菊の花
  ▼ まぼろしの 栄華のあとの 芒揺れ
  ▼ 秋深し 過去の思いは 走馬燈
  ▼ 復元の 家並み光りし 秋日和